泥炭・貝塚遺跡 |
これまでに
発見された2000余か所の貝塚からは、60余種の貝殻と魚骨、獣骨、木の実等遺物が出土していますが、海藻はほとんど発見されていません。 むろん食べなかったわけではなく、腐りやすかったためでしょう。
むしろ、貝類がよく出土する事実は、海藻類が盛んに繁茂し、よく食べられたという間証にもなるのです。
海藻類は、貝類やウニ、アワビにとって不可欠の餌となるものですから、それらと共生する習性を持ちます。
深礁へ潜水した原始人たちは、アワビやウニを採り、伊勢エビ、車エビ、タイ、スズキなど多種多様のおいしい魚介類を採り、それと同時にさまざまな海藻類も採ったに違いありません。
また、潮干の浜辺に出て、カキやアサリの貝類を拾う人々はそれらの間にちら つく海藻類に眼をとめたでしょう。 陸上の植物性の食物に恵まれなかった時代ですから、それは彼らの食事にかな り彩りを添えたことは間違いないでしょう。
こうした推定は、海触洞窟から最近発見された遺物によって確かめることがで きます。
島根県簸川郡鰐渕村の猪目(いのめ)洞窟は出雲大社の北側、裏手の辺にあり猪目湾に向かって開口した、大洞窟です。出雲風土記に「黄泉(よみ)」の穴に比定して記述されています。
この大洞窟では、縄文式、弥生式、土師器各時代の遺物が重層となって出土しており、その中からは貝殻や魚骨に混じって、アラメやホンダワラ類と見られる海藻類が検出されています。
西隣の日御碕が有史以来の著名なワカメ産地であり、東隣には同じく著名なノリ産地十六(うっぷるい)島岬があることとかかわりがありそうです。
両岬だけでなく、島根半島全域が、ノリ、ワカメ、アラメ、ホンダワラ等各種 海藻を産したことは、早くも奈良朝時代の記録で明らかにされています。
おそらくこの洞穴に住んだ人々(洞窟からは12体が発見されています)は、 冬の不漁時の食糧難に備えて、海藻類を貯えたのでしょう。
高知県宿毛市の「も」は、古くは「藻」の字が宛てられていたことから、その昔この地は、なにかしら海藻に深い関係があったのだと伝えられています。
郊外の宿毛湾に臨む位置にある竜河洞遺跡からは、多数の貝殻に混じって、土器片にヒジキとみられる海藻が付着したまま見つかりました。
現在、洞湾周辺で利用される海藻類は多くはありませんが、モズクやテングサが採れ、ヒジキの食用もかなり多いようです。
青森県亀ヶ岡の泥炭遺跡では、縄文式土器の中からワカメのような海藻が束になったまま発見されています。
この遺跡は、五所川原東北方の湿地帯にあり、クリ、クルミ等の腐りにくい木の実は泥炭化して見つかっていますが、海藻が遺存していたことは大変に珍 しいのです。
一般に先史時代の食物史といえば、鳥獣魚類、木の実が主体となっており、 降って弥生時代ともなると米穀が加わりますが、原状を留めにくい海藻類は、常に見落とされがちでした。
しかし、いまや考古学者たちの遺物の慎重な分析により、先史時代から日本人 が海藻を食べていた有り様が、一部分とはいえ実証的に明らかにされたのです。
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