縄文の昔から、われわれ日本人は海藻が大好きでした。 海藻食の歴史をお話し。
これまでに
発見された2000余か所の貝塚からは、60余種の貝殻と魚骨、獣骨、木の実等遺物が出土していますが、海藻はほとんど発見されていません。
むろん食べなかったわけではなく、腐りやすかったためでしょう。
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南太平洋から日本へ
遠い遠い昔、東南アジア方面に、船を家として漁労暮らす海住民(海人族)が出現しました。
航海術に長じる彼らは、次第に北上を始め、華南から華中へ、沖縄へと到達する集団も現れました。
そこから一派は朝鮮海峡方面へ、他の一派は四国方面へと向かいました。
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塩を作る術を知らなかった時代に、海藻は魚介類やその臓物とともに塩分補給
源としては、大変に有用なものとして認められていました。
そのままでもいいのですが、何度も海水をかけて乾かせば非常に貴重な交換手段にもなりました。
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イ ザナギ、イザナミ両神が広漠たる海洋の中へ「コーロコロ」と称えながら日本列島を生み。
ウケモチのカミの額に栗が生り、眉の上から蚕が生まれ、眼の中に稗が、腹の中
に稲が、陰(ほと)に麦、大豆、生豆が生る。
兄海彦の釣針をなくして叱られた山彦は、シオツチノオキナの助けを受け、海の神殿にゆき歓迎を受ける・・
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藻塩焼(もしおやき)
縄文時代の古代人は、雑食ではあったが自然のまま手を加えず食べていたので
塩分は動物の臓器を食べることで充分だったようです。
弥生時代に入り、農耕が始まって米を食べるようになると、塩分が不足してくるために、製塩の必要性がでてきたのです。
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ワカメは神へのお供え物
出雲地方では今でも神事に「和布(わかめ)刈神事」の行事をとり行っています。
太陰暦の正月五日(2月21日)、まだ肌寒い潮風が吹き荒れる中、出雲の、日御崎(ひのみさき)神社の裏手にある宇龍港は神事を見物する人たちでにぎ
わうのです。
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